<連載読み物>
小田原 青色申告会 発行 青色NEWS WEB
青色NEWS WEB

2006年7月号〜2008年3月号
信長の戦略 敦盛の舞

1 世継ぎ信長の苦労






 
「人間50年。下天(げてん)の内を くらぶれば夢幻の如くなり。ひとたび生を受け、滅せぬ者のあるべしや」
 信長がここぞと言う合戦の前に好んで舞った敦盛とは、源平合戦で若くして命を落とした平経盛(つねもり)の第三子を謡った平家物語の一節。
 天界の最下層である下天にとって、人間界の一生など夢幻のような短いものである。いくら長命を望んだとしても死なない人間など居ないのだ。
 織田三郎信長(幼名/吉法師・きちほうし)が10代の頃、尾張では複雑な支配がされていた。
 守護大名は源氏の名門、斯波(しば)氏であるが、勢力は衰え、織田信康(のぶやす)が上四郡を、織田信友が下四郡をそれぞれ守護代として実質支配していた。信長の父信秀(のぶひで)は、下四郡の織田信友の家老職であるものの、実質的には尾張を背負って、美濃や駿河との攻防を繰り返していた。
 父信秀の死後、遺言により信長が家督を継ぐが、有力な家臣である林美作(みまさか)・柴田勝家などは、弟の勘十郎信行(かんじゅうろうのぶゆき)を跡目として据えようと画策していた。
 信長はうつけ者と言われていた。あまり喋らず、服装や礼節を重んじず、浮浪者のようないでたちがそういううわさを呼んだ。
 しかし、少なくとも戦においてはうつけではない。
 15才の初陣での信長は、駿河衆の砦を襲い、見事な指揮で撃退している。本来は形だけの初陣を飾り、危険も無く行う儀式で、歴々の武将さえ舌を巻くほどの戦いぶりを見せたのである。
 内乱はすぐに訪れた。信行を担ぎ上げた武将たちは、下四郡守護代の信友と謀り、信長に戦いを挑んだ。
 当時の兵は、通常主に農作業を行う農兵であるのに対し、信長の軍隊は、農作業をせず、日頃より軍事練習に励み常に臨戦態勢を崩さない。
 結果は火を見るより明らかで、信長は信友を討ち取り清洲(きよす)城を手に入れた。
 信長は翌年、再び謀反を起こした信行を暗殺、同調した一族の領地を含め尾張下四郡を統一支配し、約2千の兵を配下に置いた。
 この間信長は、重臣の進言も聞かず、既成概念に囚われない改革を進める。
 3間半(約6メートル)もの長い槍を用いたり、当時は合戦には向かないとされた500丁もの鉄砲を導入し、訓練に取り入れたりした。
 尾張下四郡の治安維持、兵の再編、重臣との駆け引き。決してうつけではできない改革を次々と行っても、未だ尾張の半分を統治したに過ぎず、石高も10万石あるかないの弱小国。
 その時、隣国駿河の今川義元(よしもと)は、上洛(じょうらく)に向けた大軍団を編成していた。
●2006年7月号掲載



2 桶狭間の戦略・その1






 
 身内との攻防の後、信長が尾張下四郡の統一を成した頃、駿河城下に2万を越える大軍団が集結していた。
  天下静謐(せいひつ)を唱え、上洛軍を編成する駿遠(すんえん)二国の大大名、今川義元である。
  今川軍はさらに遠州軍と臣下となっている松平元康(後の徳川家康)の三河軍を編入し、二万八千の大軍を擁(じょう)する。
  義元上洛の噂は、尾張城下にいきわたり、戦々恐々(せんせんきょうきょう)とした地侍は今川方に寝返る者が続出した。対する織田方の軍は3000弱。
  旧暦5月(現7月)、義元上洛が始まった。尾張領内に入るや、丸根(まるね)砦、鷲津(わしづ)砦に猛攻撃をかけ、砦を守る織田方約千の兵は必死に抵抗した。
  清洲城では毎夜評定(ひょうじょう)が開かれていた。主立つ家臣は一気に討って出るか、篭城(ろうじょう)して果てるかの決断を迫るが、信長はそれに応えようとしなかった。
  約10倍もの勢力を有する相手に、真正面から戦うなら必ず負ける。篭城しても兵糧(ひょうろう)を絶たれ飢え死にして果てる。普通の将であれば名誉の為に、討って出て輝かしい死地を求める。
  しかし、信長は鼻からそんな考えは持っていなかった。彼曰く「無策中の策」。
  信長が本能寺で死すまでに、幾多の危機に見舞われた。その度、常人では考え出せない戦略を駆使して乗り越えた。
  絶体絶命の危機にあって、信長の数ある戦略の内、最も優れた戦略がこの時に実行されたのである。
  評定での進捗(しんちょく)定まらない腑抜けな姿は、今川方に寝返り、そ知らぬふりで諜報活動を続ける数名の家臣から義元へ伝わり、織田への油断を誘うことになる。
  信長には幼い頃から信頼を置いている側近が数人いる。森可成(もりよしなり)には数カ月前から駿河偵察を命じていた。
  後の秀吉の配下となる川並(かわなみ)衆の頭領、蜂須賀小六(はちすかころく)には、農民に扮して今川の行列の何処に義元が居るかを探らせている。
  そして簗田政綱(やなだまさつな)。丸根・鷲津の両砦が制圧された頃、政綱は今川本隊が桶狭間(おけはざま)に向かい進軍中と伝える。
  信長はまず寝返った家臣を切り、全軍に出撃を命じ、未明に熱田神宮へ駆けた。
  その後を遅れるものかと騎馬・兵卒が追いかける。
  熱田神宮で戦勝を祈願し、集まった2000弱の軍を従え、雨の降りしきる中、桶狭間に続く裏道を進軍した。
  今川軍がいる桶狭間手前の田楽狭間(でんがくはざま)は、一列でしか進めない狭い街道である。
  信長を侮(あなど)り、油断した今川軍は長蛇の列の兵を休め、昼食を取っていた。
  その列を見下ろす丘に織田軍本隊が布陣した。
●2006年8月号掲載



3 桶狭間の戦略・その2






 
 細い道が続く桶狭間の街道。長く伸びた葦がうっそうと茂る。雨中、油断しきっている今川軍は、織田方侍大将3名の首実験をすることもあって、全軍を止め兵を休めていた。
  信長が潜む丘の上から見下ろせば、細長い街道にひしめく兵も、長く間延びして視界に千の兵も見えない。
  その中央に二引両(にびきりょう)の幕が義元の居場所を的確に知らせていた。
  絶体絶命の危機を迎えても諦めず、策を張り巡らし、信長は遂に瞬間的にも優位な体制を得た。
  信長を先頭に200騎の騎馬武者が怒号と共に丘を駆け下り、その後を2000弱の徒兵が続く。目指すは義元の首ひとつ。
  ただでさえ狭い狭間に双方合わせ数千の兵が入り乱れ刃を交えた。
  義元を取り囲む屈強な馬廻り衆も一重二重と切り崩された。
  信長の側近服部小兵太が義元に組みかかるも、義元は小平太に斬り付ける。その横から織田の毛利新助が義元に組み付き、遂に首をあげた。
  織田方の勝どきが狭間に一斉に響き渡り、敗戦を悟った今川方の兵は総崩れとなり敗走した。
  織田軍は尚も追撃し、今川軍2300の首をあげた。
  大高(おおたか)城を落とし入城していた松平元康も、今川の許可も取らずに、旧領の三河へ退却し、岡崎城に入城して今川の支配下を脱した。
  大きな痛手を背負い弱体化を余儀なくされた今川は隣接する北の武田・東の北条から狙われる立場となる。
  信長は敢えてそれを放って置いた。深追いし、領地を広げても、今の力では維持できない。
  時をおかず、信長は、元康から家康に改名した三河の仇敵松平と同盟を結ぶ。
  東を家康に守らせ、尾張全土を平定して後、父信秀の宿願でもあった美濃を攻略するためである。
  大大名今川軍を駆逐した信長の名声は轟き、尾張領内には商人、移住者が溢れ、信長は急激に勢力を拡大していった。
  足利幕府第十四代将軍義輝より尾張守を名乗ることを正式に許された信長は時間をかけ、尾張領内の経済と治安の回復に尽力した。
  濃姫を迎えてから同盟関係にあった美濃では、斎藤道三と長男義龍の内紛が起こり、道三は討ち死にして美濃・尾張の同盟は解消されていた。
  東美濃犬山城の織田信清は、斎藤義龍と結び、信長に対抗する気配を見せる。
  この頃、木下藤吉郎(のちの秀吉)が信長の配下に加わり、徐々に頭角を現し始めていた。
●2006年9月号掲載



4 尾張統一と美濃攻略






 
 今川軍を撃退した信長は、破竹の勢いでその勢力を増して行った。合戦前は3千に満たなかった兵力も、尾張中の地侍が次々に傘下に加わり、その兵力は、半年で1万近くに及んでいる。
  信長はこの頃、周囲の大名との関係を強化している。
  徳川家康の嫡男(ちゃくなん)と信長の娘。信長の嫡男の室に武田信玄の娘を貰い受けた。また北近江の浅井長政(あさいながまさ)に妹のお市を嫁がせ同盟を結んだ。
  信長が桶狭間勝利の勢いで美濃・三河に攻め入らず、領国経営と近隣との同盟に専心したのには訳がある。
  長い間の尾張領内の争いで、肉親や多くの家臣・兵士を失い、力押しの戦い方に疑問を抱いていた。兵を無駄に死なせる事を極端に嫌った信長は、出城の取り合いで多くの兵を失った時も、一人一人の死骸を見ながら、名を呼び、涙を流したと記録にある。
  如何に自兵を失わず、勝利するか。信長は軍を編成し直し、兵の鍛錬を怠らなかった。特に鉄砲隊の鍛錬には重点を置いていた。
  信長は清洲(きよす)から、より美濃に近い小牧山(こまきやま)城へ移り30歳を迎えていた。
  同年、尾張北部にて最後まで抵抗を続けていた信清(のぶきよ)の犬山(いぬやま)城を攻め落とした。
  既に調略で、二人の家老を投降させ、支城は信長の手に渡っており、犬山はもはや裸同然であった。城下を焼き払い、じわじわと攻め入る信長に、信清本隊は一戦も交える事無く美濃へ逃亡した。信長は念願の美濃攻略への通過点である尾張統一を果たした。
  信長は東美濃への調略を行い、多くの地侍・国人を寝返らせていた。
  父・道三を退け、長い間信長の強敵であった斉藤義龍(よしたつ)が急死し、歳若の嫡男・龍興(たつおき)が家督を継ぐと、美濃斎藤家は内紛が続き、見る見る弱体化していった。
  ある日、近年才覚を見せる木下藤吉郎を呼び寄せ、稲葉山城下の墨俣(すのまた)への築城を命じた。墨俣は稲葉山城の喉元を突く位置にあるだけで無く、京への交通の要害であり、伊勢国への牽制の役も担う何役もの要所である。
  この墨俣築城は、過去に数度数千の兵で攻略しているが、その度の強烈な反撃を受け、築城に至らない。
  藤吉郎は配下に加えた蜂須賀・前野の川並衆の元を訪れ、戦略を練った。
  文献によると、当時の墨俣には城跡があり、既に石垣は積まれていた。ただ、浅い川の中洲であるゆえ、低い石垣では防御の役にはならない。
  築城にかかれば猛攻は免れない。信長から配される鉄砲隊は僅か75人。藤吉郎は墨俣で死ぬ覚悟を決めた。
●2006年10月号掲載



5 墨俣の一夜城






 
  美濃・尾張の国境付近には、木曽川・長良川などの河川が入り組み、そこには川並衆と言う独立グループが存在する。侍から身を落とした者、山賊上がりの者等、鉄砲を使い、野戦に優れた能力を発揮する荒くれ者の集団である。
  その頭領が楠(くすのき)源氏の血を引く蜂須賀小六。
  信長は本来、小六を直接配下に加えたいのだが、小六がそれを拒んでいた。短気な信長の下では、実力が発揮できないからであろう。
  小六は侍大将に登用されたばかりの木下藤吉郎の誠意に打たれ、信長の直下ではなく、藤吉郎の配下に加わった。
  その小六の力が加わった事を見越して、信長は今回の墨俣攻めに藤吉郎を用いたのである。
  藤吉郎に与えられた兵士は鉄砲足軽75名と言え、川並衆の兵力を併せれば、鉄砲隊が200、総兵力は3000にもなる。
  藤吉郎は信長の命令から一ヵ月後、思案を重ねついに行動に移った。
  木曽川・長良川の上流にある木材の切り出し現場から築城に必要な丸太をいかだに組み、川を下り、夜が明けないうちに、墨俣に着ける。墨俣では、丸太を差込み柵を作る穴や堀を予め工事しておく。
  藤吉郎と小六の作戦は見事に功を奏し、夜明けには二重の馬防柵が完成した。
  築城に気付いた美濃の軍隊1万が対岸に押し寄せ、数千単位での攻撃を繰り返すが、馬防柵と200丁の銃撃にことごとく撃退される。
  藤吉郎は兵を防御と築城に分け、美濃軍の撃退をしながらも、櫓・馬屋・兵士長屋・館を築いていく。
  周辺の村々は既に信長に加担し、兵糧を持ち込む者、造作に加わる者、炊出しを手伝う者が後を絶たない。
  後に「墨俣の一夜城」と言われるこの作戦も、実際は5日間程かかった様で、完成の知らせを受けた信長が、兵3000を率いて墨俣に入城し、藤吉郎と小六に多大な褒美と兵を与え、在番させたと信長記にある。
  一夜城と言われたのには、一夜で攻め入れない馬防柵を築いたと言う事でり、何も無い場所に一夜で城が出来たわけではない。
  美濃稲葉城の喉元に墨俣城を築き上げた時点で、勝敗は決したようなものであった。稲葉山から離れた東美濃では離反が相次ぎ、全て信長の配下に加わった。
  美濃軍の主力である美濃三人衆(安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全(うじいえぼくぜん)/計1万の軍)の投降で、国主斉藤龍興は亡命し、念願であった美濃攻略は終結した。
  信長は美濃と尾張を併せ岐阜と言う新しい国号を用いた。そして美濃攻略後間もなく北伊勢攻略を強引に押し進めた。
  ある日、新築間もない岐阜城に、明智光秀と名乗る足利将軍家の家臣が訪れた。
  京都では十三代将軍の足利義輝が暗殺され、十四代将軍足利義栄が存在したが、元々、将軍家転覆を狙い阿波の三好三人衆が擁立した将軍であり、諸国大名には正当な継承者としての認知は得られていなかった。
  義輝の弟義秋は、暗殺を恐れ臣下と共に越前の朝倉家に逗留していた。朝倉義景は近いうちに軍をまとめ、京へ上洛し、義秋を正当な将軍職に就かせる事を約束していた。が、いつになっても上洛しない義景に愛想を尽かし、破竹の勢いで勢力を拡大する信長を頼って来たのだ。
  信長は上意を受け、尾張美濃・北伊勢の領国配下に同盟の三河徳川軍を加えた4万の上洛軍を編成した。
●2006年11月号掲載



6 上洛






 
 美濃攻略時には1万がせいぜいの織田軍であったのが、上洛を控えて岐阜城下にひしめくのは、今川義元の上洛軍を上回る4万の大軍。信長は、たった一年で大きく変わった環境に心躍らせたに違いない。
 上洛に先立ち、信長は200騎のお供衆のみを従えて、浅井氏領の北近江を訪れた。
 妹お市の方の輿入れ、そして同盟後、初めて浅井の領地を訪れ、上洛出兵の要請を行うためである。
 200騎と言う少人数で向かうのには、信長流の策略があった。
 時は戦国・下克上の時代である。浅井は同盟はしたものの、代々の連合国である朝倉に異を唱える信長を、心から信頼していない。
 この機に信長を仕留め、朝倉と合流し、美濃・尾張を配下に収めることも出来る。当時の浅井・朝倉には、合わせて3万を上回る兵力があった。
 浅井氏には長政に家督を譲ったとは言え、未だ大殿として実権を握る父・久政が居る。彼は朝倉との同盟を重んじており、新興の信長を疎んじている。
 その状況を重々知る信長は、長政の心中を試した。
 お供集には、忍びに長けた森長可も同行している。いざ浅井にそのような気配があれば、すぐに自領内に戻れる準備はしている。
 しかし、浅井は信長を裏切る事無く、面会は終わった。信長は改めて妹婿の若き武将・長政に厚い信頼を置いた。
 城下を埋める4万の大軍のうち、絶対の信頼を置けるのは、尾張衆の2万弱。
 同盟の徳川軍5千、先の美濃攻めで新たに信長軍に加わった美濃三人衆の1万弱、新たに征服した北伊勢の軍勢1万弱。
 一見無敵に見える4万の信長軍も、実情は急編成された「にわか大軍」である。
 そのような内実で上洛は決行された。
 岐阜を出立し、近江領で浅井軍一万を加える。五万の軍勢は、尾張衆を先陣に南近江の六角を攻め立てる。
 30近い支城は、一週間で次々と破られ、その勢いに、一戦も交えず開城し上洛軍に合流する地侍が後を立たない。
 六角軍は難攻不落の観音寺城を残すのみとなった時点で六角義賢・義治父子が抵抗もせず敵前敗走した。
 織田軍は6万にも膨れ上がり京の町へ入洛した。
 信長の入京を阻もうとした三好三人衆は、その大軍勢に恐れおののき、阿波へ逃亡。河内若江城の三好義継、大和を牛耳る豪族・松永久秀は直ちに信長に服従した。
●2006年12月号掲載



7 京の覇者






 
 京には、常に新たな征服者による焼き討ち・強奪の歴史がある。京の町の住民は荒武者と評判の信長の入京を歓迎してはいなかった。
 しかし、信長は自軍兵士に対し、たとえ一銭でも強奪をした者は首をはねると言う厳しい軍律で望んだ。
 前例に無く治安を乱さない新たな征服者の評判は町衆ばかりか朝廷の信頼を得るにも絶大の効果を奏した。
 入洛後すぐに、足利義昭は正式に十五代将軍に任ぜられ、信長も朝廷から京都警護の勅命を受けた。
 信長は早速、周辺の社寺に対し、多額の矢銭(軍事賛助金)を要請した。特に自由貿易で潤う商人の町、堺には2万貫を課した。が、堺の町衆は、のらりくらりと矢銭を逃げていた。
 一方朝廷への寄進、公家の旧領復活、皇居の修増築を行い、社寺町方への圧力とは逆の温和な政策を取る。
 義昭は信長への恩賞として、副将軍の地位、筆頭管領職斯波氏の家督相続、桐紋、二引両紋の使用等を用意したが、信長は、紋のみを拝領し、家督相続副将軍の地位は辞退した。
 将軍とは名ばかりで、軍事力や領地を持たない義昭とは一定の距離を保ち、幕府を無能化させ、実権を掌握しようとしていた。
 足利幕府の本陣として二条城を建設し終えた信長は、入洛の年の末、京都の経営基盤をあらかた築き終え、岐阜で年を越した。
 翌正月早々、阿波へ退いていた三好三人衆が、堺の町から上陸し、兵力1万で二条城を急襲した。
 京都警護には3000人のみ置いていたが、周囲の与力大名も出鼻を塞がれ、二条城に駆けつけられない。
 翌日、早馬が岐阜に着き、信長はすぐさま出兵した。
 浅井長政をはじめとする京都周辺の与力大名や、細川、明智の軍が盛り返し、二条城は守られていた。
 三好三人衆の急襲から5日後、信長は5万の大軍で京都を覆った。援軍は更に膨れ上がり、翌日には8万の大群となって京都中が信長の兵で溢れた。
 三好三人衆を一蹴するだけならこれほどの兵力は必要ないが、織田軍の莫大な兵力を見せ付けることで、反対勢力の気概をくじく目的を持っていた。
 信長は今回の三好三人衆の後ろ盾となり、矢銭にも応じない堺町衆に3万の兵力を向けた。
 堺衆は恐れおののき、2万貫の矢銭を献上したが許されず、更に多額の年貢を課せられた上、自治権を剥奪された。
  信長は堺のほか大津など産業の盛んな町を次々と支配下に置き、経済的な基盤を確立した。
  尾張・美濃・北伊勢に加え五畿内を掌握し、無敵と見える信長だが、武田信玄、朝倉義景、本願寺顕如等、実権を奪われた将軍義昭の策動による十数万の新勢力「信長包囲網」が形成されつつあった。
●2007年1月号掲載




8 見えざる敵






 
 信長の戦略を語る上では、その当時の複雑な時代背景を説明する必要がある。
 信長が敵対視した堺の商人。本来商人は戦闘集団である武士とは違い、常に支配者に従う弱い者と言うイメージが在るが、この当時はそうではない。信長が大軍を向けた堺の町は、3000人以上の浪人(主に三好三人衆に組する者)の武装集団を抱え、3000丁の鉄砲と弾薬を貯蔵していた。
 当初の矢銭を要求された時も、信長と一戦を交える覚悟をしていたが、いざ攻められると、三好の郎党は淡路へ逃げ去り、当てが外れ、遂に信長に服従した。
 また本来聖域であり、戦とは無縁の寺院にも、僧兵と呼ばれる武装集団が育成されていた。
 比叡山延暦寺には3000人、大和(奈良)東大寺にも同数、本願寺には百万の一揆宗徒と数千の雑賀・根来鉄砲衆が何時でも応戦する構えを取っていた。
  宗徒・門徒からの献金や貢物ばかりでなく、当時の社寺は、荘園と言う直轄農地、座と呼ばれる様々な商品の専売権、市と呼ばれる経済市場の利権など様々な収入源があった。
 これら京都周辺の主立つ武装社寺は、大名一国を遥かに上回る力を有していた。
 その他にも、街道に領地を有す地頭・国人等の地方勢力は、多くの関所を設け、通行料をせしめていた。
 その為、商人は岐阜から京まで、最大70箇所の関所を通らねばならず、地方商業発展の大きな妨げとなっていた。
 信長は領国内の社寺の荘園、座の権利、市の権利を剥奪し、一定額の年貢を納めるだけで、誰にも自由な商業を許可した。領国内の関所も廃止し、信長領国内では流通経済が盛んになった。これを楽市楽座と言う。
 収入源を失った地頭・国人は織田家からの禄(給与)を受け、信長の軍隊に編入された。
 現代で言えば前代未聞の大規模な経済規制緩和を実行したと言えよう。
 新たな商業形態は、周辺諸国から多くの移住者を誘い、人口減少・収入減の崩壊を余儀なくされた周辺国や社寺は徐々に弱体化した。
 信長の勢力拡大を阻む包囲網は、将軍義昭や朝倉・武田・上杉に留まらず、このように経済力を剥ぎ取られつつある寺院勢力をも巻き込み、膨らんでいった。
 信長は南近江を制したとは言え、比叡山周辺には延暦寺の大檀那である朝倉氏の伏兵が潜み、京と岐阜を結ぶ街道を脅かしている。
 この為信長は琵琶湖沿いの北国街道を避け、主に伊勢街道を往来の主要路としなければならなかった。
 古くからの朝倉の同盟国北近江の浅井が不穏な動きを見せる中、幕府の行事に参列しなかったとして、信長は遂に越前国主朝倉義景討伐の軍を上げた。
 義弟の浅井長政も信長に従軍する筈だった。
●2007年2月号掲載



9 越前攻め






 
 元亀元年4月、信長は越前朝倉攻めに同盟の徳川軍を加え、3万の兵を挙げ京を出立した。
 途中、二条城の前を通り、朝倉と内通する将軍義昭に無言の圧力をかける。
 先鋒の秀吉軍が越前領内に入るや一向一揆勢の強力な抵抗に遭遇した。これは、本願寺が朝倉に組したことを物語る。織田・徳川連合軍は、一揆を蹴散らしながら次々に諸城を落とし、日本海側に位置する金ケ崎城を包囲した。
 合流するであろう浅井勢からは未だに連絡が無い。
 浅井は古くからの朝倉の盟友であるため、朝倉攻撃の要請を無視し、静観する事も予想していた。
 信長の妹の市が浅井長政に輿入れをする時、信長は浅井に対し、許可無く朝倉を攻撃しない誓約を交わしている。柴田・林など重臣からは誓約どおり浅井に事前に相談する提案が出されたが、その誓約は個人的なものであり、今回の攻撃は、朝倉が将軍の要請を無視した結果で、公儀(将軍)の征伐であるゆえ不要とした。
 金ケ崎城包囲の軍議の最中、浅井に嫁いだ市から両側が紐で固く縛られた小豆袋が届けられた。
 前後を封じられた袋のねずみ。つまり浅井の裏切りを暗に表す伝言と受け取った信長は、家康の捲土重来を期す(一度本拠地に戻り体制を整えてやり直す)という助言を受けて全軍撤退の命令を出した。
 攻撃から撤退の体制に移る軍議中、浅井の裏切りを確定する早馬が次々と到着する。問題は殿である。
 殿とは撤退する軍の最後尾の隊のことを示す。敵の追撃に対峙しながら後退しなくてはならない。通常は隊の全滅を覚悟する。
 幕閣末席の秀吉は、危険な殿の役を買って出た。
 退陣する信長軍は、近江浅井領を避け、琵琶湖西岸の若狭街道より京を目指す。
 信長は少数の供を連れ一足先に街道を南下する。
 秀吉は自軍6百を分け三隊交代で敵の攻撃を支えつつ下がっていく。
 秀吉は途中、佐々鉄砲隊の援護を受け、兵を半数に減らしつつも任を全うした。
 若狭・街道筋の国人・地侍が劣勢の信長を裏切らず、援護支援してくれた為、一向一揆の攻撃を退け、洛北大原へ到着した。
 京では義昭と手を結んだ三好三人衆が、1万の兵を入京させていた。
 信長軍全滅との噂を聞いていた三好軍は、秀吉軍の働きによりほぼ無傷で入洛する信長軍を見るや、京を捨て淡路へ壊走した。
 これにより浅井への決別、朝倉・本願寺・三好三人衆の敵対が明確となった。
 将軍義昭は、信長に奪われた実権を取り戻すために信長に敵対する勢力を密書で取りまとめ、大きな信長包囲網を築き上げた。
 信長は信頼していた長政の反逆を受け、朝倉もろとも滅ぼすことを決意した。
●2007年3月号掲載



10 姉川の戦い






 
 越前での窮地を辛くも逃れた信長は、その2ヵ月後の元亀元年6月、徳川精鋭5千を含む3万の軍勢を小谷城(おたにじょう)へ進め姉川(あねがわ)に着陣した。
 浅井は朝倉の援軍を頼み、1万8千で川向こうに対峙。
 信長は家康に8千の朝倉軍へ向かわせた。
 自軍2万5千は15段の構えで、浅井の強兵1万に対峙した。
 家康が向き合う朝倉軍の士気は低いが数は多い。
 対して信長の向き合う浅井軍は、数は少ないが、士気は極めて高い。
 徳川軍の酒井・小笠原両隊が朝倉に攻め入るのを皮切りに両軍は衝突した。
 朝倉軍は数を頼んで徳川軍を押すが、戦況は膠着(こうちゃく)。
 浅井軍は円陣を組んで段に構える織田軍に押入る。
 浅井軍は押しに押し、織田の前備えの秀吉隊・柴田隊を次々に撃破し、開戦5時間経ってもその勢いを止めず、織田軍は遂に11段まで攻め込まれた。
 しかし、徳川の一隊が左回りに迂回し、朝倉軍の横腹を突くと戦況は一変した。
 朝倉軍は混乱し、時を於かずに敗走し始めた。
 織田軍でも破られた隊を立てなおし、浅井の左右後方に押し寄せた。
 浅井軍はあと僅か信長本陣に届く手前で崩れ、全滅を逃れるべく、壊走した。
 織田・徳川の戦死は800対して、浅井・朝倉は3000を越す兵を失った。
 大名が戦に負けると、死傷した兵以上の離反者が現れる。自分の領地を守れない主君に従う理由は無い。
 特に北近江において、浅井は絶対君主ではない。浅井軍の主立つ与力は、浅井と同格の豪族連合である。
 この戦いで、浅井の領地は最盛時の半分近くにまで狭まっていた。
 朝倉も越前・若狭国境付近の領地で離反者が止まず、動員できる兵数は、明らかに減少した。
 信長は姉川の戦いで奪い取った横山城(湖北東部)を秀吉に守らせ、浅井・朝倉に備えさせた。
 同年8月、本願寺と呼応し摂津で挙兵した三好軍を征伐すべく、軍を摂津大坂へ進めた。
 石山本願寺は1496年、蓮如のときに摂津国石山に建てられ、後に浄土真宗本願寺派本山となっていた寺院であり、近畿周辺に百万の熱心な宗徒を持っていた。
 その宗徒のうちには宗主蓮如に従順する五千の紀伊雑賀鉄砲衆や、源氏の流れを汲み戦上手の下間法矯などの軍師がおり、実戦力でもそこらの大名を大きく凌ぐ実力を備えていた。
 大坂攻めは予想外に困窮し、その隙を突き朝倉・浅井軍3万(多くは一揆農民)が信長領の近江坂本に侵攻した。守将である譜代の家来、森可成および実弟の織田信治が命を落とすと言う予想外の事態が発生した。
 信長は急遽兵を坂本に向けるが、浅井・朝倉は比叡の山に後退する。
 将軍義昭の煽動が功を奏し、信長が一方を攻めれば、後方が脅かされると言う信長包囲網が完成した。
●2007年4月号掲載



11 延暦寺焼討ち






 
 延暦寺(えんりゃくじ)の援けを受け、比叡(ひえい)の山に立て籠もった浅井・朝倉連合軍3万。高地に拠(よ)る敵を攻め落とすには、3倍の兵力がいる。
 これ以上比叡山(ひえいざん)に手を焼けば、畿内(きない)で反発する豪族が増える。武田信玄の動静も侮れない。
 信長は朝廷を動かし、朝倉との和睦に踏み切った。
 遠地に兵を展開し、自領が不安な朝倉は即応じた。
 正式な大名でもなく、勢力が弱った浅井は、和睦の当事者とされず、無視された上、勅命(ちょくめい)で領地の多くを信長に割譲(かつじょ)された。浅井にはもはや勅命(ちょくめい)に逆らう力を維持しておらず、朝倉はそれを黙認してしまった。
 信長は翌年、協力要請に応じず、のらりくらりと逃げ回る比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)に侵攻する事を決意した。
 比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)は、最澄上人の開場以来、日本鎮護(ちんご)の根本道場として朝廷の庇護(ひご)を受けてきた。
 が、法倫理は乱れ、女人を連れ込み、金銀財宝を溜め、兵を養い、聖域としての姿は消え失せている。
 本来60歳まで修行をした者のみ門前町である瀬田に住むことを許されるが、門外不出の法は守られず、多くが門下町瀬田に住み、世俗におぼれた日々を送っていた。
 聖職者としての義務を果たさず、朝倉の反逆を支持し、反抗の態度を崩さない延暦寺を信長は許さない。
 元亀2年9月、信長はにわかに瀬田に侵攻した。
 町では多くの町人、寺人の家族が家財道具を抱えて比叡(ひえい)の山門に逃げていった。
 それを追う様に、比叡(ひえい)の三方から軍を侵攻させ、3千を越す寺社堂坊を坊主・町衆もろとも焼き尽くした。
 良く歴史ドラマでは良識人として知られる光秀が信長に侵攻をやめるよう請願(せいがん)したとあるが、光秀のそのような言動はどの記録にも無い。
 真っ赤に燃える比叡(ひえい)の山は遠く離れた石山本願寺からも見えた。
 信長の残虐さに怯えるどころか、顕如(げんにょ)は宿敵延暦寺(えんりゃくじ)が退治されたことを喜んだと言う。侍同士ばかりではなく、当時は寺門同士の戦いもあった。
 しかし、この行為は熱心な仏教徒でもある武田信玄や上杉謙信の怒りを買った。
 翌年、義昭の上洛要請を受けた信玄は、3万の兵で遠州徳川領に侵攻した。
 徳川の要請を受け、信長は兵3千を浜松城に送った。
 しかし信玄は家康を無視する形で浜松城北側の三方ヶ原を西進した。このまま行けば尾張領内に達する。
 家康は1万の兵を出し信玄軍の横腹へ攻め懸けた。
 信玄軍はすぐに鶴翼(かくよく)の陣形を取り、敵を見下ろす有利な戦いで家康軍を撃破した。この時、あまりの恐怖に脱糞した家康は、自らの哀れな姿を描かせ、以後の戒めとした。
 信玄軍は三河野田城を攻め落とすが、それ以後、その動きを不気味に止める。
 信長は信玄との岐阜での決戦を覚悟していたが、信玄重病との確証を得て、軍を京・近江へ向けた。
●2007年5月号掲載



12 第一次包囲網の崩壊






 
 武田軍は2ヶ月野田城に留まった後、4月に甲斐(かい)へ向け後退を始めたが、同月12日、遂(つい)に信玄はこの世を去った。享年53歳。
 極秘とされた信玄の死も間者(かんじゃ)を通じて全国へ伝わる。
 信長包囲網の大きな一翼の崩壊を知った将軍義昭は、一時は信長と和睦(わぼく)するものの、細川藤孝(ほそかわふじたか)の助言も聞かず、二条城・槙島城(まきしまじょう)に再度挙兵した。
 信玄死去で勢いを得た信長は、同年7月、足利幕府軍を破り、義昭本人を京から追放した。
 信長は朝廷に上奏(じょうそう)し、年号を天正に改号させ、ここに名実共に室町幕府は終焉を迎えた。
 天正元年8月、信長は岩成友通(いわなりともみち)の淀城(よどじょう)を、帰順した細川藤孝(ほそかわふじたか)に攻め落とさせたのを皮切りに、江北(こうほく)に出兵していた朝倉を追い破り、越前領へ追撃した。朝倉義景(あさくらよしかげ)は、従兄弟の景鏡(かげあき)の謀略にかかり、本城一乗谷(ほんじょういちじょうだに)を目前にして自決を余儀(よぎ)なくされた。
 信長は越前平定(えちぜんへいてい)を柴田勝家(しばたかついえ)以下に任せ、2万の兵を従えて、浅井の小谷城へ向かった。
 小谷城は既に8千の織田軍に包囲されていた。
 5年前には1万の兵をも動員した浅井だが、寝返り、逃亡が相次ぎ、包囲された城を守るのは僅(わず)かに2千。
 若き城主、浅井長政(あさいながまさ)は死を決して篭城(ろうじょう)した。
 長政の立て籠(こ)もる小谷城には、信長の妹お市の方とその子供が居る。
 信長は義弟である長政(ながまさ)に、幾度と無く降伏の機会を与え、従えば大和を与える条件まで出すが、長政(ながまさ)は一向に降伏しない。
 信長は羽柴秀吉(はしばひでよし)に命じてお市とその子供たちを差し出すように要請し、長政はその申し出に応じた。
 お市たちを退去させた燃えさかる小谷城で、長政(ながまさ)は自らの葬儀をあげ、自決した。享年28歳。
 その後、河内で反旗を翻(ひるがえ)した三好義継(みよしよしつぐ)を退治し、信玄の死後僅(わず)か1年で、将軍義昭が画策した「信長包囲網」は完全に崩壊した。
●2007年6月号掲載



13 本願寺の一向一揆






 
 包囲網が崩壊し、朝倉の越前・浅井の北近江を掌握したのもつかの間、越前では一向一揆が守護代の桂田長俊(かつらだながとも)を攻め滅ぼし、越前は加賀と同じく『百姓の持ちたる国』となる。
 信長はすかさず軍を送ろうとするが、武田勝頼の美濃侵略に対するために兵を美濃へ留めた。
 上杉謙信の動静も侮れない『静かなる窮地(きゅうち)』において、信長は朝廷に蘭麝侍(らんじゃたい)の切り取りを奏上(そうじょう)した。
 蘭麝侍とは、朝廷所有の沈香(ちんこう)と呼ばれる貴重な香木(こうぼく)であり、切り取りはこれまで、足利将軍義政(よしまさ)のみに許可され(後に明治天皇が切取る)その行為は天下人である証(あかし)とされていた。
 武田・上杉・本願寺は切り取りの勅許(ちょっきょ)は降りないものと確信していた。
 その勅許が下りた。そしてその効果は計り知れないものがあった。
 信長危うしと動静を伺っていた畿内・新領地の地侍達は、先を争って恭順(きょうじゅん)の意思を示し、強敵達の動きも一時沈静した。
 
 天正2年、織田軍は伊勢長島の一向一揆を攻めた。
 一向一揆は本願寺門徒であり、本拠の大坂をはじめ畿内・北陸・伊勢に多くの熱狂的信徒を有し、その総数は百万とも言われた。
 その一揆行動は、勿論、本願寺顕如の指示である。
 農民の反抗に対し、3万の信長正規軍を投入するのは、やり過ぎと言う意見もあったが、一揆の強い抵抗を受けながら、次第に一揆勢の内実が明らかになった。
 一揆は本願寺の家老に相当する大坊主が指揮し、雑賀の鉄砲隊を含む本願寺本隊が加わり、その数は3万を越えていた。
 この戦で信長は3人の兄弟をはじめ多くの将兵失ったが、半年をかけて一揆勢2万人を討ち取り長島一向一揆の壊滅に成功した。
 義昭の洛外放逐(らくがいほうちく)後、天下はにわかに信長の手中に落ち始めた。
 天正3年、甲斐・信濃・上野・駿河を所領とする武田勝頼は、父信玄の死後、家臣の掌握(しょうあく)を確固なものとする為もあり、徳川領となった遠州に1万8千の兵力で長篠城(ながしのじょう)を攻めた。
 同盟軍である家康の出兵要請を受けた信長は、3万の兵を擁(よう)し、長篠を目指す。
 遂に武田・織田の全面直接対決の時を迎えた。
●2007年7月号掲載



14 長篠の合戦までの道






 
 天正三年、信長を大将とする織田・徳川軍と四郎勝頼(しろうかつより)を大将とする武田正規軍による対決の幕が落ちた。
 信玄が数年前に信長との対決寸前に没し、家督を受け継いだ勝頼は、動揺する家臣の掌握(しょうあく)に苦労している。
 事実、もっとも血が濃いとされる穴山信君(あなやまのぶきみ)、筆頭家老の小山田信茂(おやまだのぶしげ)は、国人大名への動向を示している。
 信玄さえも直接対決を避けていた信長を、勝頼は甘く見ているとの声も家臣の中に大きくなっていた。
 勝頼は動向の怪しい家臣を完全に掌握するためにも、この一戦に入れ込む思いは格別であった。
 五月、満を持した武田軍1万8千は遠州長篠(ながしの)城を包囲すべく徳川領に侵入した。
 長篠城は武田軍の不得意な篭城(ろうじょう)で猛攻を凌ぐものの、徳川軍も援軍を出しこまねき、信長に救援を依頼した。
 先年、信玄が三方ヶ原へ進軍したとき、三千の援軍しか出さず、家康を見捨てた経緯もあって、今回は本格的な出兵を仕組んだ。
 しかし、背後には本願寺の不穏な動きがあり、根城の岐阜を手薄にするわけには行かない。
 信長は織田正規軍5万を岐阜に残したまま、明智光秀、羽柴秀吉を率いて、足軽鉄砲(あしがるてっぽう)隊を中心とする3万の援軍を編成した。
 かねてより鉄砲は、弾込めに時間がかかり、野戦に向かないとされていたが、信長は三丁の鉄砲と射手一名・弾込補佐要員二名の三人を一組とし、絶え間なく射撃する作戦を考えていた。
 天正3年6月、信長は3万の足軽軍勢と3千丁の鉄砲を擁して、長篠の家康軍に着陣した。
 家康の家来は家康を「殿」と呼び、信長を「上様」と呼んだ。信長と家康の地位はそれほど開いていた。
 梅雨明けが迫っていた。決戦前、信長は戦場に柵を三重にめぐらせた。
●2007年8月号掲載



15 長篠の戦い






 
 天正3年5月18日、長篠の地、設楽ヶ原(したらがはら)の東に武田軍1万5千。西に織田・徳川連合軍3万8千が対峙し両者の睨み合いが始まった。
 おりからの雨が土壌を濡らし、武田は自慢の騎馬隊を進められずにいた。
  信長はその間に馬防柵(まぼうさく)と呼ばれる強固な柵と空堀を自陣を囲うように、三重に張り巡らした。
  21日、梅雨があけ、地面のぬかるみも乾き始めた早朝、戦場に武田の攻め太鼓が響き渡り、山県昌景(やまがたまさかげ)率いる赤揃(あかぞな)え鎧(よろい)の勇猛な騎馬隊が、織田・徳川軍目指して襲い掛かった。
  当時、武田軍の騎馬隊は無敵で名を馳せ、恐れない者が居なかった。馬防柵の内側とはいえ、鉄砲を構える足軽は、押し寄せる恐怖に体中を震わせていた。「敵を充分引き付けるまで撃つな。逃げるものはその場で切り捨てる」
  鉄砲隊を指揮する佐々成政(さっさなりまさ)の声が響く。
  一千の騎馬の怒涛(どとう)の轟音が、馬防柵の外側に設けた空堀の手前で一瞬止まった。
  織田軍の三段構えの鉄砲隊が、一千ずつ絶え間なく火を噴いた。
  至近距離からの射撃は的を外さない。
  轟音とともに名のある将兵が次々に倒れ、山県隊は僅かな残兵を取りまとめ本陣に帰還した。
  自らも被弾し負傷した山県は、敵陣の戦術を勝頼に伝え、戦略の見直しを迫ったが、勝頼は伝統の騎馬軍の構えを変更しなかった。
  途中、一部馬防柵が破られ、騎馬隊の進入を許すものの、鉄砲隊の構えを崩さず、狙い撃ちで全滅させた。
  昼過ぎ、武田軍は親類衆、譜代の家老をはじめ、多くの死傷者を出し、ついに退却をはじめた。
  織田軍は追討し、勝頼は辛くも逃げ延びるが、以後武田の軍事力は急速に弱まっていった。
●2007年9月号掲載



16 安土城と第二次包囲網






 
 天正3年8月、長篠の決戦直後、信長は本願寺衆に奪われた越前へ、柴田勝家、前田利家らを侵攻させた。
  本願寺派は、統治の大坊主、地頭侍・門徒の間に争いが絶えず、内部崩壊に近い状態が続いていた。
  織田軍の怒涛(どとう)の侵攻に対し、協調できない本願寺派の抵抗はもろくも敗れ、守護代の下間頼照法橋(しもつまよりてるほっきょう)、朝倉景健(あさくらかげたけ)をはじめ、1万以上の越前・加賀門徒が殺された。
  柴田勝家は統治された越前八郡の運営を任され、以前のような失敗の無いよう、北国経営の掟を信長より貰い受ける。この掟は、家康が後の徳川幕府で制定する武家諸法度(ぶけしょはっと)のモデルと言われている。
  天正4年、信長は念願であった安土城の築城に取り掛かった。
  安土城は琵琶湖の東岸に接し、湖に突き出た小高い山の上に築城される。
  信長支配下である美濃・尾張・伊勢に通じ、越前・若狭に通じる北国街道もあり、何より、海上移動で京の都へ直結する立地である。
  前年信長は、朝廷より権大納言・右近衛大将(うこんのえたいしょう)に任命されていた。これは征夷大将軍と並び幕府を開く権限を持つ地位である。
  同時に、嫡男信忠に岐阜尾張一三〇万石を譲り、形式上隠居した。配下の諸国は嫡子や家老に代理統治させ、信長自らは、実質八百万石は下らない全領地の統括者と言う新たな地位を築いたのである。
  信長の全国統一は京を中心に、にわかに現実のものとなろうとしている。
  しかし、丹波の波多野(はだの)一族の反旗を皮切りに、大阪石山本願寺の抵抗、大水軍有する毛利軍および越後の上杉謙信の敵対化が明確になった。信州・甲斐の武田、関東の北条の動静も侮れない(第二次包囲網の完成)。
  信長周辺は再び緊張の輪に落とされた。
●2007年10月号掲載



17 天王寺決戦と水軍戦






 
 天正四年、対石山本願寺の前線拠点である天王寺砦が本願寺勢に急襲された。
  守勢三千に対し、本願寺は一万五千を送り込む。
  信長は三千の援軍を率いて天王寺砦に向かうが、砦を包囲する敵勢に阻まれる。
  信長は、雑賀鉄砲隊の銃弾を太腿に受け落馬するも、すぐさま騎上に返し先陣を切って敵勢に向かった。
  大将の奮闘振りに士気の上がった織田軍は、ついに大軍の敵勢を蹴散らし、天王寺砦に入城した。
  信長に遅れ、各地から援軍が殺到し、五万の大軍となった。今度は石山本願寺が包囲され、篭城を余儀なくされる。
  補給路を絶つべく本願寺の四方を封鎖したが、死を覚悟した信者のゲリラ的な兵糧の送り込みを絶ちきれず、寺内の三万人の篭城は守られていた。
  本願寺の兵糧は主に大阪湾からの搬入によって維持されていた。その大阪湾は、反信長軍の長、毛利水軍が制海権を握っている。
  信長は織田水軍を大阪湾警護に当たらせた。
  そこへ本願寺の援軍として毛利水軍八百隻が侵攻し、焙烙火矢(火薬を詰めた小さな陶器を付けた矢)を射込み、炎上爆発させ、織田水軍を全滅させた。
  後世木津川の戦いと言われるこの水軍戦で本願寺の補給路は確保された。
  この戦いにより、毛利との敵対は明らかになった。更に信長の度重なる宗教弾圧に業を煮やした越後の上杉謙信が本願寺と通じ、武田・雑賀を加え、強大な第二次信長包囲網が完成するに至った。
●2007年11月号掲載



18 上杉謙信の急死






 
 木津川(きづかわ)の戦いで毛利水軍に敗れた信長は、陸上での包囲は維持しつつも、本願寺に対するそれ以上の無駄な攻略はしなかった。
  自軍の舟が、敵方の火矢(かや)や焙烙(ほうろく)(爆弾)で燃えさかる姿を見て、配下の水軍大名九鬼義隆(くきよしたか)に、大筒3基、大鉄砲多数を搭載し、3ミリ厚の鉄板を巻いた、長さ20メートルを越す巨大鉄甲船(てっこうせん)の造船を命じた。
  天正5年、本願寺の鉄砲衆の郷である紀州雑賀(さいが)に大軍を送り込んだ。
  雑賀衆は複雑な地形を利用して巧みに防戦し敵方に大きな損害を与える。が、織田軍の執拗(しつよう)な攻撃に、陣地は見る見る追いやられる。
  織田軍は頃合を見て和議を申し入れ、雑賀衆はこれを受け入れた。
  和議の内容は、雑賀衆が降伏した形をとっているが、雑賀の大将衆は何の罪も問われない。
  この和議によって、本願寺を守る鉄砲衆の主力が兵を引く事となった。
  一方、信長に敵意を露(あらわ)にした上杉謙信が能登を攻め、これに対し信長は柴田勝家を大将とする3万の軍を送るも、上杉軍に撃破される。更に大和の松永久秀(まつながひさひで)が、謙信に呼応して反旗を翻(ひるがえ)した。
  信長は京に戻り、久秀の城を落とし、謀反を鎮めた。
  第二次信長包囲網が勢いを見せはじめた天正6年春、上杉謙信が急死し、北陸の脅威は俄(にわ)かに沈静化した。
  信長の急進劇が始まった。
●2007年12月号掲載



19 無敵の奇行






 
  強敵の謙信が没した後の信長軍は勢いを増した。
  上杉領となっていた能登加賀を占拠し、北陸方面軍として柴田勝家らを置く。
  また、武田に対し中山方面軍として嫡男(ちゃくなん)信忠軍を、朝廷や畿内の押さえに明智光秀軍を、対本願寺には佐久間軍、対毛利には中国方面軍として羽柴秀吉をそれぞれ対峙(たいじ)させた。
  また、新たな戦略目標として四国の長曾我部氏に対し、四国方面軍として丹羽長秀・織田信孝軍を配した。
  天正7年、琵琶湖のほとりに安土城が完成した。
  標高四百メートル程の山頂に五層七重の天守閣を持つ本丸を配し、二の丸・三の丸をはじめ、武家長屋・寺院が麓(ふもと)まで連なっていた。
  城下町は碁盤の目のように整備され、楽市楽座が敷百歳まで寿命が延び、財が増し、気力が高まるとした。
  が、直ぐに飽きてその一回だけの行事として終わる。
  本願寺が朝廷を介して信長に降伏すると、本願寺を包囲していた佐久間親子を「怠惰である」として追放。
  また、筆頭宿老(しゅくろう)の林秀貞を、30年も前に弟信行との戦いで信行側に付いた咎(とが)で、安藤守就を、以前武田と内通したという既に許されたはずの咎(とが)で次々と追放した。
  信長は大敵が消え、気が緩んだ自軍が許せなかったのかもしれない。次々と生贄を吊るし上げ、配下の引き締めを強めた。
  天正10年、信玄の娘婿である木曾義仲(きそよしなか)が信長に寝返りを申し出た。
  機は熟し、武田征伐の大号令が発せられた。
  武田軍5万に対し、織田軍は10万、徳川軍3万、北条軍2万が、武田の南側を囲うように配備された。
  武田の頭領勝頼(かつより)は、木曾義仲の謀反(むほん)を鎮(しず)めるために5万の軍勢で木曾へ進軍していた。
●2008年1月号掲載



20 人間50年






 

 15万もの敵勢の侵攻に武田軍では謀反が頻発した。
 武田の親族でも最も血の濃い穴山梅雪をはじめ、朝比奈、小笠原など、主立つ家臣がなだれを打つように織田軍に投降した。
 木曾の謀反を鎮めるために出立した勝頼の軍五万は、新府城を捨て、落ち延びる時にはわずか数十人。
 信長軍は無人の原野を進むように甲斐・信州を征服し、ついに勝頼一行を天目山で自刃させた。
 甲斐の武田はひと月もかからず信長の手で滅びた。
 天正十年の夏、駿河知行割の礼にと、家康は安土を訪れた。
 同盟とは言え格下の家康に対し、信長は礼を尽くした饗応で迎えた。家康の東の守りは無視できない。
 その宴の接待役に光秀があてられていた。
 光秀は日本海に面す丹波丹後と京のある山城を領し、朝廷や公家との連絡役とし
て重責を担っている。
 信長は、かつて猛将と云われた頃の面影を潜めた光秀に不満を持っていた。
 家康をもてなす酒宴の途中にも係わらず、光秀に山陰攻めを命じ、更に現在の所領を召し上げた。
 新たな所領は毛利から奪う新領地とする前例のない命令だった。
 光秀は50歳を迎え、当時では充分老齢の粋に入っていた。多くの領地、領民を抱え、日々穏便に暮らす事を夢見、織田の猛将として四半世紀を戦い抜いた。
 数日後、信長は京の常宿としている本能寺に居た。
 京の都は現在周囲を織田領に囲まれ敵の入る余地は ない。信長警護も数十人と
言う少なさだった。
 その時、山陰と京への分かれ道に光秀の軍勢1万強が居た。光秀は全軍を止め、軍議を開き、謀反の意を配下の武将に漏らした。
 軍議は直ぐ纏まり、一行は京の本能寺を目指した。
 明け方、本能寺に明智軍が殺到した。
 ざわめきに目を覚ました信長に、森蘭丸が明智軍の謀反を伝えた。
  「是非もなし」そう叫んだ信長は光秀の実力を充分に知っている。光秀が負ける戦を仕掛けるはずもなく、その時点で死を覚悟した。
 信長は槍をつかみ応戦した。光秀の兵は強い。
 「もはやこれまで」傷を負った信長は、炎渦巻く本能寺の奥へ消えた。
 光秀は燃え盛る本能寺を門外の本陣で見ながら、信長との四半世紀を思い出していたに違いない。 

  次回最終回は、信長の残したものと題し、2年に渡る連載の締めくくりとします。(筆者)

●2008年2月号掲載



21 総括 信長






 

 日本史上の好きな人物のNO.1に掲げられる織田信長。
  信長を時代の異端児と云うが、いったい彼の何処にそれほどの魅力があるのだろうか?
  本願寺・一向一揆への執拗な弾圧、比叡山の焼き討ち。仏法と言う絶対の権威をも認めず、そこに実在する悪を徹底的に正した。
  座や市、関所の利権も崩壊させ、地頭や国人を禄と言う給与で軍隊に組み入れ、応仁の乱以来の群雄割拠の混乱を見事に鎮めた手腕は天才としか言いようが無い。
  将軍と言う有名無実の権威にこだわった足利義昭や家柄に縛られた朝倉義景・武田四郎勝頼の末路も、偶像が崩れ落ちるが如く悲しいまでにもろかった。
  信長は既成概念に縛られず、現実を理解する能力に長けていた。
  宣教師から世界を教えてもらい、海外の建築や戦術などあらゆる先進技術を受け入れ、その自覚した環境下で何をなすべきかを考え実践していた。
  信長が中央政界に君臨したのは僅かに十余年。
  その間、経済・政治・軍隊・大名のあり方等、多くの事柄が、大きな改革の元に躍進している。
  もし、信長の政権が継続していたならば、モンゴルの元のように、アジア・ヨーロッパを制圧していたかもしれない。
  事実、当時の日本の軍事力は世界のどの国よりも強大で且つ強力であった。
  地方の小豪族から身を起こし、あっという間に政治の中枢である畿内を掌握。
  農民は戦火を逃れ、商人は自由経済の恩恵を受け、秀吉のように才能あるものはその出生にかかわらず登用された。
  信長には、非情と言う印象にも勝る「人々に夢を与える大きな力」があった。
  そして何より、民を愛し部下を愛する慈愛に満ち溢れていた。
 
  ― 敦盛の舞 完 ―

●2008年3月号掲載






 

小田原青色申告会
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